カビパン男と私

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われわれは言葉で考えているのか?

小学校の国語の時間だった。先生が「言葉は何に使われるのか」と私たちに尋ねた。私たちは、会話をしたり、文字にして読んだり、ともかくコミュニケーションのために用いる場面を挙げていった。しかし、先生は「まだ一番大事なことが出ていない」という。結局だれもそれを当てることができず、先生は得意げにこう言った。「私たちは言葉を使って考えているのです」。

私はそのとき本当にそうだろうかと疑ったのを覚えている。頭の中に言葉がある気はしなくて、頭の中にある何かを口にするときはじめてそれが言葉になるような気がしてならなかったのだ。そして、その気持ちは今も変わらない。

比喩を用いるなら、「私たちは言葉で考えます」というのは「python はインターンされた文字列を使って計算します」とか「lisp はシンボルと呼ばれるオブジェクトを使って計算します」に当たりそうだ。たぶん、そんなことを言う人はいないと思う。この場合、実際に計算をしているのは python のインターンされた文字列や lisp のシンボルが指し示す、たとえば関数オブジェクトか何かだろう。

もっとも、妙な喩えを持ち出さななくても、このことはもっと簡単に確認できる。私はよく俳優の名前をど忘れするのだが、そんなときでも彼の顔を思い浮かべることができるし、出演作や出身地を言うこともできる。ありがたいことに名前を忘れたからといって、ガベージ・コレクターが彼にまつわる何もかもを私の頭の中から拭い去ったりはしない。頭の中で考えるぶんには、案外これで困らなかったりする。

もし私たちの頭の中にある「考えるために使われるオブジェクト」に総称的な呼び名を与えなくてはならないとすると、「概念」ということになるだろいう。あるいは、それでは狭すぎるかもしれない。概念というのは輪郭がある程度ハッキリしていて、なんなら言葉によってこれを指し示すことができる可能性があるものという印象があるからだ。たとえば芸術家が創作のときに何か考えていることは確かだが、彼らの頭の中に登場するオブジェクトにすべて概念という名前を与えるのはどうもしっくりこない。

話を元に戻そう。あるときその先生が私たちに何かの作文を書かせた。私はずいぶん背のびをして、使いうる限りの修辞を盛り込んで作文をしたのだが、それに対する先生が赤ペンで書いたコメントは「私はこういう作文は嫌いです」というものだった。今にして思えば、先生は言葉とそれが指し示す内容がごく素朴な対応関係を持っていてほしかったのだろう。

もし先生がプログラマだったならば、関数はよく整理した命名がされていて、そのプログラミング・コードは読みやすかったはずだ。そして、しばしば思いつきで map 関数に無名関数を食わせている私のコードは、「こういうコードは嫌いです」というコメントを頂戴したに違いない。

@kabipanotoko