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懐古

昭和三十年代をなつかしがる人たちがいる。私は彼らよりは若輩で、裏路地なんか見たこともないし、駄菓子屋なんぞも、物心つく頃にはほとんど廃業していた。

そもそも、昔をなつかしむという気持ちに欠けたところがあって、溝に頭を突っ込んでくたばるときも前を向いて倒れるのだと見栄を切った奴がカッコいいと思っている※。

ところが、である。子どもの頃に見た特撮番組なんかを見ると、背景に映っている街並に目を引かれる。小学生の頃に大人たちが見ていた時代劇を再放送で見ると、その古くさい音楽に何か心を動かされる。おかしな話だ。もっとも、年をとって懐古的になったのかといえば、そうでもなさそうだ。自分の子ども時代の生活に回想が及ぶと、思い出したくもないことばかりだ。

ふと気がついた。子どもというものは、意識的かそうでないかは別として、ごく自然に大人になった自分を想像する。私にとって、子どもの頃の街並というのは、自分が大人になってそこに入っていくと考えていた世界なのではなかろうか。ことろが――当たり前なことだが――実際に大人になってみると、そんな世界はもうないわけである。

今の私にしてみると、自分の子ども時代の世界がもはやこの世にはないということ自体は、痛くも痒くもないことだ。だが、その同じ世界が、自分が大人になって入っていくべき世界だったとしたら、やはり何らかの喪失感があるのは当然かもしれない。

とくに、昭和三十年代に子ども時代を送った人が成長し、入っていくべきだった世界は、エネルギー革命、人口ボーナス期、等々歴史的に見てそうありふれているとは言えない明るい材料に囲まれた世界だったに違いない。(大阪万博の一番のりの入場者が走っていくときの顔を記録フィルムで見たが、尋常ならざる明るさがあった)。そうであれば、喪失感もひとしおのことだと思う。

故郷をなつかしむ人たちがいるのは、故郷の外が故郷と異質なものだからだ。しかし、現在の東京は高度成長時代の東京より、ずっと現在のロンドンに近いだろう。そうであれば、故郷は空間的ではなく時間的に存在しているとしても不思議はあるまい。そして、時間というものの性質上、もといた場所に戻ることは不可能なのである。だれ一人として故郷で大人になることはできないのだ。

こう考えれば、自分が育った昔の美点をやっきになって他人に説明するのは意味のないことだし、その必要もないということに気づく。私はただ、ひっそりと、一人しみじみ、あのダサい1970年代を懐しむことにしよう。

※(なんのことはない、よたよた歩いているので、前に足を出さないとうつぶせに倒れてしまうだけの話だ。そっくり返っているから後ずさりしないとあお向けに倒れてしまうお大尽たちより立派だなどということはない)

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